- 稲村ジェーン
- 希望の轍
- 忘れられたBIG WAVE
- 美しい砂のテーマ
- LOVE POTION No.9
- 真夏の果実
- マンボ
- 東京サリーちゃん
- マリエル
- 愛は花のように(Ole!)
- 愛して愛して愛しちゃったのよ
映画「稲村ジェーン」というと、バブル期に生まれたつまらない・ダメ邦画の代表格、みたいな扱われ方をサザンのファンからさえもされていて、そのこと自体はまったく否定はしないけど、このサントラ(厳密にいうと違うんだけど)もそのあおりを食って敬遠されるのであれば、それには一言(以上)申し上げたい。
この作品は、桑田佳祐という60年代というテレビ世代のミュージシャンが作った、ありそうでなかった唯一のバラエティアルバムなのである。
僕は桑田佳祐〜サザンオールスターズというバンドについて考える時に、その「おふざけ」に注目することは非常に重要だと思う。
彼らのデビュー曲「勝手にシンドバッド」なんてまさに「おふざけ」が前面に出ていて当時はコミックバンド・一発屋みたいな扱われ方もしたという。桑田佳祐はメロディメーカーだし印象的な歌詞を作る人でもあるけど、同時にそのことに対して非常に「照れ」がある。その「照れ」をどう表現するか、という部分が彼の音楽を面白くしていた部分だと思う。大体「サザンオールスターズ」ってめちゃくちゃカッコ悪い名前じゃないか。
僕がサザンをリアルタイムで知ったのは「チャコの海岸物語」だったけど、やっぱり「少し変」な部分が子供心をとらえた(「愛してるよ〜」とさけぶところとか、のちにGSのパロディだと知るちょい古くさいアレンジとか)。その後、テレビ的には低迷した印象があるけど、「Bye Bye My Love」「メロディ」など大作「KAMAKURA」に結実するヒット曲群でなにやらかっちょいいバンド、というイメージが僕らの中にできたと思う。さらに原由子の休養中のKUWATABAND、ソロなどでそのイメージは揺るがぬものとなった。
だけど、これは個人的な意見なんだけど、そのイメージは桑田佳祐にとってけっこう邪魔なものだったんじゃないか。大御所になればなるほど「おふざけ」ができなくなっていく矛盾。テレビで大暴れもしにくくなった。
でもサザン休止を経て復活後に出たこのアルバムには、そんな桑田佳祐の「おふざけ」がうまく出ている。
まず面白いのが、曲間に寺脇“王様のブランチ”康文と今村明美という劇団SETの2人によりサウンドドラマが入っている点。このカップルが劇場で「稲村ジェーン」を見ているという設定で、飲み物をこぼしたりごちゃごちゃとしゃべったり見終わって感想を言いあったり、というような内容になっている。それ自体特に珍しいものではないけど、決して構成自体に酔わず曲の邪魔になっていないのは意外と難しいと思う。
音楽的には「希望の轍」「忘れられたBIG WAVE」「真夏の果実」「愛は花のように(Ole!)」といった名曲を、「LOVE POTION No.9」「愛して愛して愛されちゃったのよ」のカバーとインチキ南米風味の曲が彩る。その「インチキ南米風味」というのが、映画の時代背景である1965年あたりの日本にあったユーモラスな部分と通じて独特の味を出している。
桑田佳祐の「照れ」っていうのは何かというと、結局自分たちが作っている音楽はフェイクに過ぎないという意識で、だからどれだけ美メロを書いても「おふざけ」でそのことを茶化さないとやっていられなかったのではないか。
それがこのアルバムでは仮想的に1965年という設定を作ることで、堂々と「フェイク」をやれる、という立場に自らをおけた。そしてその1965年というのは、洋楽のエッセンスを取りいれても無邪気に「歌謡曲」として楽しめた時代なのである。だからこのアルバムは絶対にハマクラこと浜口庫之助の「愛して愛して愛されちゃったのよ」のカバーでラストを飾らないと、と桑田佳祐は思っていたに違いない。この曲こそ、彼にとってのこの時代の象徴なのだ。
先述のカップルが話題にするこの映画のマスコット的存在のミゼットも桑田佳祐が好むユーモアの1つだと思う。
最近の桑田佳祐の音楽はそういった「おふざけ」の部分を完全にナシにしちゃってる感じがして面白いと思えない。といっても「エロティカセブン」とかやられてもなぁというのもあるから難しい。単純に体力的な問題もあると思うけど。
さて、最後に映画「稲村ジェーン」について。
「ウーマン・イン・レッド」(「スティーヴィー・ワンダー/心の愛」)、「Mr.アーサー」(「クリストファー・クロス/アーサーのテーマ」)など、主題歌がいい映画はつまらないことが多い。
その中でもこの映画が特に駄作扱いされるのは、この映画の貧困な絵作り・ストーリーと、サザンの歌詞が喚起させる芳醇なイメージとにあまりにギャップがありすぎたからなのではないかと思う。サザンの中心人物が映画を作った、といえば誰しもサザンを聴いて頭に思い描く世界観を期待するだろうし、サザンの場合はそれがまたとてもいい絵でありすぎたのだと思う。
でも桑田佳祐だけじゃなくて、脚本の庸珍化の責任も追及すべきだとは思う。なんで桑田佳祐はこの人に脚本を書かせたんだろう?作詞家が物語を書くと往々にしてこういうことがある。松本隆の「微熱少年」とかね。
(2005/7/10)
